布袋大島五雲作
布袋大島五雲作
布袋大島五雲作
略歴
文久元年 富山県井波町に生まれる 本名五作
家代々彫刻を以って業とする
明治四一年 十二月韓国宮内府の命により仁政殿の窓枠彫刻を制作する
その後、日韓併合し李王家と構せられ大正十年昌徳宮再築の際も窓
枠の彫刻の制作を拝命の榮を賜う
明治四二年 秋に大正天皇北陸行幸の際富山県滑川町老年会より献上品の武内宿
禰置物を謹作する
明治四五年 富山県立工芸学校教授となる
大正十二年 秩父宮殿下立山御登山に付き本県会議事堂に於いて御台覧ノ栄を賜
う
大正十三年 北陸陸軍大演習の折、本県会議事堂に於いて聖上陛下天覧の栄を賜
う
昭和十二年 没す
◎各博覧会共進会等に於ける主なる受賞
富山県主催総合共進会に於いて 銀杯
東京大正博覧会に於いて 銀杯
平和記念東京博覧会に於いて 金杯
大禮記念京都大博覧会に於いて 金杯
富山県生産共進会に於いて 名誉賞
米国桑港萬国博覧会に於いて 名誉賞
※井波彫刻の由来
明徳元年(1390年)本願寺五代綽如上人(しゃくにょしょうにん)は、後小松天皇の勅許(ちょっきょ)天皇より命令が下ることにより井波別院を創設したが、いく度か焼失しそのつど再建された。特に江戸時代中期、瑞泉寺本堂再建のおり、本堂彫刻のため、京都本願寺より、御用彫刻師・前川三四郎が派遣(命じて出向かせること)され、このとき地元大工・番匠屋九代七左衛門ら四人がこれに参加し、前川三四郎について彫刻の技法を本格的に習ったのが井波彫刻の始まりである。
寛政四年(1792年)瑞泉寺勅使門(ちょくしもん)菊の門扉、両脇に彫刻した「獅子の子落とし」は七左衛門の代表作で、狩野派風な図柄で浮き彫りの技法が駆使され、日本彫刻史上の傑作とされている。
江戸時代末期頃まで主に神社仏閣彫刻などにその技法を競っていた。明治時代に入ってから寺院欄間に工夫をこらして新しい住宅用の井波欄間の形態が整えられ、特に初代・大島五雲は欄間彫刻の研究に没頭して新生面を開いた。